hontonohanashiのブログ

新しい出会いや別れ、日々のありふれた日常を綴らせてください。
たまの愚痴はお許しくださいね。

今日は終戦の日ですね。96歳の母に聞いてみたその日

今日は終戦から78年ということで、ちょうど実家の片付け
に来ていたので、母から78年前のことを聞いてみました。





今までにも少しだけ聞いていたのですが、母の記憶も日に日に
怪しくなっているので、この機会にもう一度聞いてみることに
しました。


母から聞いたそのままを覚書として、書いてみます。
母の記憶ですから、事実とは違う箇所もあるとは思います。
ご了承下さい。



母は静岡県、古くから温泉街として有名な熱海の生まれです。
父親は温泉旅館などに温泉を引いたり、水道を引いたりと
今で言う水道屋を生業としていました。


兄弟は多く、兄、姉2,弟1の5人兄弟です。
当時は戦時下、兄は戦争に駆り出され、母は17歳のときに
ピンク色の召集令状(男子は赤紙ですけど)で呼び出され
二人の姉とともに挺身隊(ていしんたい)に半ば、強制的に
連れ出されます。


結婚していない未婚の17歳以上は、挺身隊の名のもとで
奉仕活動を余儀なくさせられたということです。


上の二人の姉たちは、通いで熱海市内で奉仕活動ができたの
ですが、
母だけは、ある日トラックに乗せられて、近隣の少女たちと
ある施設に連れて行かれます。


場所は最後まで聞かされることはなかったようですが、多分、
愛知県の豊橋市。。。もしかしたら、豊川市かもしれません。


軍需工場なので機密が漏れることがあってはいけないので
どこに連れて行かれても、聞くなんてことはできません。


そこで母たち同年齢の女子挺身隊の面々は、朝6時起床、6時半
に簡単な食事を済ませたら、近くの草むらで草を刈り、その草を
頭の上に縛り付けて(機銃掃射の弾除け)30分かけて山の中を
仕事する軍需工場まで移動して夕方の6時まで、仕事に励んだの
です。



仕事の内容は、弾倉の一部にアルファベットのAからZまでの
刻印をしていたそうです。
敵国のアルファベッを習うことは厳禁の時代、なぜか最初に
仕事のために覚えさせられたということでした。


国からの給金は一日1円未満で、1ヶ月分でも30円??
そのお金で自分たちで使うトイレの落し紙、石鹸などを購入
するとほとんど残らないそうです。


毎日、6時から18時まで働いて、お休みは日曜日だけ。
日曜日は同室の少女たちと話すほか、外出厳禁ですから
今で言えば、かなりのブラック企業ですよね。


でも、当時の少女たちは黙々と作業をこなし、文句を言う
なんて考えられない時代です。


さて、終戦の玉音放送ですが、当日の朝、普通に作業の前に
12時に放送があるからと、上の者に言われて集まると、
ドラマでもよく使われる放送で、戦争が終わったことを
知ったそうです。



その時の皆の反応は「やっと戦争が終わった
やっと、家族の待つ家に帰れる」・・・
不謹慎にもそう思ったそうです。


それからは時系列が定かではありませんが、その日のうちに
解散が言い渡されたそうで、


行きはトラックに乗せられ、強制的に連れてこられた少女たち
です。泣き出した少女もいたようです。


その後は4〜5人に別れて、下田から小田原行きの中に、なんとか
入れていただき、熱海の某所でトラックを降りたそうです。


ちょうど丸一年、母の挺身隊での体験です。
母の戦争はこの日に終わりました。


多くを語ることはタブーとされていた時代、そこで別れた仲間
たちとはその後、一度も会うことはなかったとのことです。


父からも戦争の体験はあまり聞くことはありませんでした。


が、わたしたちが戦争の体験を直接聞いた最後の世代ですから
ここに記そうと思いました。



長い文章、お付き合いいただきましてありがとうございます。